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大新登窯跡は、平成16・17年度の発掘調査の結果、全長が約170m、窯室が39室とであることがわかりました。また、やきものの失敗品の捨て場である物原(ものはら)からは、江戸時代の庶民向けの器「くらわんか」が大量に出土し、大量生産を究極まで推し進めていった波佐見窯業を象徴する窯として歴史的にも大変貴重な窯跡となっています。

大新登り窯について

ABOUT OHSIN NOBORIGAMA 

長崎県東彼杵郡波佐見町は、長崎県中央北部に位置し、長崎県佐世保市・川棚町、佐賀県有田町・武雄市・嬉野市と隣接する県境の町です。町内には、陶器から磁器生産に移行する段階の「畑原窯跡」、青磁の有品を多く産した「三股青磁窯跡」、世界最大級の規模を有し日用食器を大量生産した「中尾上登窯跡」をはじめ、近世以降の国内窯業史に重要な意味をもつ古窯跡が36基存在しています。平成12年9月6日には、そのうち5基の窯跡と2か所の窯業関連遺跡が「肥前波佐見陶磁器窯跡」の名称で国史跡に指定されました。
 
 
大新登窯跡(おおしんのぼりかまあと)は、波佐見町南東部に位置する中尾地区に所在します。中尾地区は中央部を貫流する中尾川によって開析された谷地形で、集落は中尾川を中心に東西の丘陵に向かって展開しています。一帯は地質敵に流紋岩で構成され、とくに地区東側の白岳山では、昭和期まで磁器素地・釉薬の原料及び農薬の増量剤等を用途とした風化流紋岩「陶石」の採掘が行なわれていました。

大新登窯の歴史

History

中尾地区では、文献「郷村記」によれば、正保元年(1644年)に窯業が開始され、17世紀後半代には波佐見四皿山の一つ「中尾山」として発展を遂げ、幕末まで中核的窯場として近世波佐見窯業を牽引しました。明治期以降も窯業は継承され、波佐見、ひいては長崎県を代表する窯業集落として今日まで存続しています。
 
現在、中尾地区では、中尾登窯跡が国史跡「肥前波佐見陶磁器窯跡」、明治期建築のやきもの卸商家「中尾山うつわ処赤井倉」が国登録有形文化財となっています。また、8本の石炭窯煙突群・昭和初期建設のやきもの工場・中尾地区の町並み全体が、長崎県の景観資産に登録されており、約360年に亘る窯業の歴史を伝える貴重な文化財が随所に残され保護されています。
 
大新登り窯は、中尾集落の中央西より南北方向に伸びる舌状台地の尾根に存在します。窯が遺存していると想定される段は、現在では畑・荒地となっており、所々に窯壁奥壁が露出しています。また、竹林である東側斜面には多くの陶片・窯道具が失敗品の捨て場である物原に散布していました。
 
文献「郷村記」によれば、江戸末期の安政3年(1856年)頃には39室存在していたと考えられ、また近年の発掘調査から全長約170mにも及ぶ世界最大規模の登窯と判明しました。